新生命宣教会にようこそ。
聖書に示された神の純粋なみ言葉に基づいて罪の問題を解決することができるようにする水
(イエスのバプテスマ) と御霊の福音を広めるために、新生命宣教会は無料キリスト教図書を出版し、多くの言語に翻訳してきました。
今日、数多くのキリスト教徒がいますが、その多くは、実際は日曜教会に出席しているだけで、その心には救済のみ言葉に関する明確な理解はみられません。しかし、イエスは、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(ヨハネ
3:5)とおっしゃっています。
ここで, 「新たに生まれる」とは、どういうことでしょう。新たに生まれるとは、大方の人々が信じているように、「イエスを信じるようになってから罪深い生き方をやめて新たな人生を始める」ということだけをいうのではありません。それはよいことでしょうが、それ自体では新たに生まれることでも救われることでもありません。聖書が水と御霊によって新たに生まれなければならないというのは、「罪人は悔い改め、イエスのバプテスマと十字架の血とを信じ、それによって心に罪の赦しを受けて義人になる」ということです。すなわち、それは、上からのはたらきによって新たに生まれるということなのです。これは、人間から来る変化ではなく、神から来る変化なのです。
ヨハネ I 5:6-7 には、「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です」とあります。イエスは、水と血によってこの世に来られました。イエスは受肉され、処女マリヤの体からお生まれになり、三十歳になられたときにヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。水と御霊によって人間を新たに生まれさせる救済のみわざは、イエスがお生まれになり、ヨルダン川で人類の代表者バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を洗い流されたことから始まりました。
イエスが人類の身代わりとして罰をお受けになり, 十字架上で血を流されたことは、よく知られています。では、どうして神であられ、罪のないイエスが十字架上でこの罰をお受けにならなければならなかったのでしょう。あらゆることには原因と結果があります。イエスが人類の罪のために十字架上で死なれたことは,
ヨルダン川でバプテスマのヨハネから手を置く形でバプテスマをお受けになったことと密接に関係があります。使徒ペテロは、ペテロ
I 3:21 で、バプテスマが人類を救う型であると述べました。すると、イエスはバプテスマと十字架とによって来られたということになります。
イエスのバプテスマには罪の赦しの奥義、水と御霊によって生まれることの奥義が隠されています。それにもかかわらず、このイエスのバプテスマを無視し、信じないでいるなら、神のみこころを裏切り、救済なげうっていることになります。新生命宣教会の無料キリスト教図書は、聖書の基礎の上に確固として基づいた救済の基準について明確な説明をし、人はどうしたら水と御霊によって新たに生まれることができるかという、救済の基本的な概念について語っています。詳しくは、本または電子ブックの形で提供されている無料キリスト教図書をお読みください。
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